昭和54年(1979)   10月
1日 9時24分、東京駅発。台風16号の影響でダイヤが乱れ、13時45分に岐阜羽島着。記者会見。市内4カ所で街頭演説。大垣市スポーツセンターで政談演説会。20時2分、東京着
2日 江崎通産相、金子蔵相とイラン石化問題で協議。党本部へ。昼食後、都内、市原市、千葉市、市川市の4カ所で街頭演説
3日 8時半羽田発大分へ。大分、別府両市内4カ所で街頭演説。15時空路宮崎へ。宮崎、小林、都城各市内で街頭演説。21時4分羽田着
4日 午後、埼玉県下遊説。13時半まえ草加市役所で外人記者団のインタビュー。街頭宣伝車に乗り、草加、川口、鳩ケ谷、戸田、蕨、浦和、与野、大宮の各市を回る。17時半、大宮駅前で街頭演説。
5日 8時20分、羽田空港で東欧ご訪問の皇太子ご夫妻のお見送り。その後、神奈川県内の伊勢原、平塚、藤沢市など6カ所で街頭演説
6日 都内遊説。高島平団地で街頭演説。多摩地区を巡回。
7日(日) 台風18号の影響で風雨が強い。9時、志げ子夫人と瀬田小学校で投票。20時半、党本部へ。斎藤幹事長らとテレビの開票速報を見たあと23時すぎ私邸へ。深夜まで開票速報をみる。当選11回得票数12万6890票で第1位
8日 5時起床。開票速報を見ながら候補者名簿をチェック。10時党本部着。党候補者一覧表のある4階ロビーヘ。自民党伸びず。13時記者懇談。14時15分迎賓館でビデラ・アルゼンチン大統領歓迎行事。党本部に戻り16時すぎ記者会見、「総裁として再建に努力する」旨表明。17時すぎ再び迎賓館に行き同大統領を表敬。同大統領歓迎宮中晩餐会
9日 11時迎賓館でビデラ大統領と会談。官邸で同大統領夫妻歓迎昼食会。経企、通産、外務各省の事務説明を受けて16時半帰邸
 



 
2日 山下防衛庁長官は閣議で、北方三島に攻撃用ヘリコプター、火砲、対空火器など配置されていると報告。高島外務次官は、駐日ソ連大使を外務省に招き北方三島への軍備に厳重抗議
5日 米国の北太平洋漁業管理委員会は、ベーリング海での日本のズワイガニ漁を徐々に締め出し、81年を最後に以後は禁止する決議を採択
7日 第35回総選挙。投票率は68.01%で戦後2番目の低率
8日 開票の結果、自民は予想外の退潮で無所属の追加公認9名を含めて幸うじて過半数(257名)という状態になる。共産、民社が伸長し社会、新自クが退潮
   
1日 パナマ運河の管理運営権が、76年にわたる米国支配から米、パナマ両国人からなる運河委員会に渡り、運河と周辺地域は今後20年間に段階的にパナマに返還となる
6日 ブレジネフ・ソ連共産党書記長は、東独建国30周年記念式典で、1年以内に東独からソ連軍2万人と戦車1000台を削減すると発表
8日 メキシコ石油会社は、同国産原油を一バレル当り2ドル引き上げて24.60ドルとし、10月1日から実施と発表。クウェートも石油各社に10月1日にさかのぼり一バレル当り1.94ドル値上げし、20.98ドルにすると通告
69歳
  昭和54年(1979)   10日 昼、知人の令嬢の結婚式。迎賓館でビデラ大統領主催晩餐会
11日 9時官邸でビデラ大統領と会談。日本・アルゼンチン文化協定に署名。14時迎賓館で同大統領の歓送行事。14時10分ホテルにジャン・ルクセンブルク大公夫妻を表敬。同大公夫妻の宮中晩餐会
12日 閣議でイラン石化事業への政府支援を了承。J・E・カーベリー・米イリノイ大総長ら表敬。春芳会。福田一夫人告別式
13日 10時半、羽田空港で宮崎国体に出発される天皇陛下のお見送り。帰途、自宅の近くで本を買い昼食
14日(日) 19時羽田空港で東欧訪問から帰国の皇太子ご夫妻をお出迎え
15日 10時半党本部。11時西村副総裁と会談、党内調整工作をきく。正午すぎ斎藤幹事長、佐々木副幹事長、田中官房長官と一連の実力者会談について協議。14時すぎ三木元首相と会談。三木氏は「けじめをつけよ」と主張。首相は「公約を実行することで責任を果たしたい」と表明。16時半帰宅
16日 第15回全国農協大会で挨拶。14時すぎ党本部で中曾根元幹事長と会談。中曾根氏は「少数の実力者による調整機関を設け総裁の進退もここに委ねる」ことを提案、首相はこれを拒む
17日 オタイバ・アラブ首長国連邦石油相が表敬。14時党本部で福田前首相と会談。福田氏は「国民の審判をふまえて国民に分りやすい処置をとる」よう主張し責任を追求したのに対し、首相は「党の機関で結着をつけたい」と反論。終了後、記者団に「予想以上に厳しいね」と感想。夜、私邸で宏池会幹部と協議
18日 朝、二木会。そこに中野国土庁長官が辞意を伝えに。更生保護制度施行30周年記念全国大会で挨拶。靖国神社の秋季例大祭に参拝。第30回地方銀行大会パーティ
19日 11時半、内奏のため皇居へ。午後、オタイバ石油相に勲一等瑞宝章を伝達。18時45分帰邸
20日 10時、混迷政局を打開のために西村副総裁と会談。ブラウン米国防長官が表敬。午後、中野国土庁長官と会い辞表提出を慰留
 








13日 東京税関成田支署は、KDD社員2名が多額の装身具類を無申告、過少申告で国内に持ちこもうとするのを関税法違反で摘発
16日 原油値上げによる石油情勢の悪化から円が下落し、東京外国為替市場の終値が一ドル=231円70銭となり1年7ヵ月ぶりに230円を割り込む。
 滋賀県議会は、リンを含む家庭用合成洗剤の追放など柱とする「琵琶湖の富栄養化防止条例案」を可決
  10日 北京の中国人民大学の学生が、文化大革命以来軍隊に占拠されていた校舎の返還を要求してデモ。11日に中国共産党中央軍事委が部隊の撤収を決定
15日 リビアとイランが、原油価格を10月1日にさかのぼって10%引上げることを決定。リビアの最上質油は一バレル当り26.27ドルでOPECの上限価格を上回る
16日 韓国の釜山市で学生3000人が維新憲法撤廃を叫んでデモ。市民も参加して暴動状態となり、学生や市民数百人が逮捕されて多数が負傷。韓国政府は18日、釜山市に非常戒厳令を施行
17日 インド・カルカッタの貧民救済に生涯をささげた老尼僧マザー・テレサが、1979年のノーベル平和賞受賞
18日 イラクが石油各社に対して20日付で、原油価格を平均10%引上げると通告
69歳
  昭和54年(1979)   21日(日) 私邸に鈴木善幸、伊東正義両代議士、佐々木義武副幹事長、真鍋賢二参院議員、田中官房長官ら
22日 10時、迎賓館でリー・クアンユー・シンガポール首相歓迎行事。11時から党本部で西村副総裁と会談。15時官邸でリー首相と第1回会談。17時半、官邸でリー首相夫妻歓迎夕食会
23日 11時すぎからリー首相と第2回会談。午後、党本部で党内調整中の西村副総裁、斎藤幹事長らと会談。15時半すぎ帰邸
24日 10時、迎賓館でリー首相歓送行事。14時赤坂御苑で秋の園遊会。16時党本部で3時間にわたり福田前首相と会談、責任論で平行線
25日 党本部で15時半から三木元首相と16時半から中曾根元幹事長と会談。解決の糸口つかめずに、斎藤幹事長、西村副総裁らと協議
26日 植木光教参院国対委員長が参院自民党執行部会の報告。16時、私邸に党基本問題運営調査会の根本竜太郎会長代理と福田一、原健三郎両代議士が同調査会の結果を報告
27日 10時、園田外相が朴韓国大統領射殺事件で報告。11時、党本部での臨時総務会で「責任は痛感するが辞任は考えていない。進退問題を含め責任問題の処理を西村副総理に一任する」ことを表明。13時、故受田新吉前代議士の民社党葬で弔辞を読む
28日(日) 朝「ぎりぎりまで話し合い条理をつくしてやっていく」と記者団に語る。10時すぎ陸上自衛隊朝霞訓練場で自衛隊観閲式
29日 「進退は西村副総裁の判断に従う」と語る。10時半、在日韓国大使館に弔問に。11時40分、園田外相らが朴大統領射殺事件を報告
30日 第一次大平内閣総辞職。10時半、党本部で西村副総裁と会談。13時、故椎名悦三郎氏の自民党葬。17時40分から党代議士会で「責任は党で十分討議してほしい」と挨拶。18時から衆院本会議で会期決定と議長、副議長選挙
31日 11時まえ国会着。院内総理室にあわただしく人の出入りが続く。午後、政局収拾について国会内の廊下で記者団に対し「名案があったら教えてや」と語る。19時40分いったん帰邸。21時すぎ党本部で福田、三木、中曾根三氏と会談。「打開策を見出すにいたっていない」と語る。西村副総裁、斎藤幹事長らと打ち合せ
  21日 民間の労組、学者、研究者による現代総合研究集団(大河内一男代表)は「二十一世紀の労働と社会」という政策提言を発表し、労働生活の改善を強調
29日 西村副総裁が大平首相の意を受けて、福田、三木、中曾根各氏に協力を要請するも、非主流派は首相退陣を要求することで一致
30日 第89特別国会召集。会期を11月16日までと決める。議長に灘尾弘吉氏、副議長に岡田春夫氏を選出
 


22日 イランのパーレビ前国王は病気治療のため米に入国
26日 朴正煕韓国大統領が夕食会の席上で金KCIA部長に射殺される。62歳。金部長は直ちに逮捕
 世界保健機構(WHO)はケニアの首都ナイロビで天然痘の根絶宣言を出す
27日 崔圭夏首相が韓国大統領代行に任命される
30日 米大統領特別調査委員会は、スリーマイル島の原子力発電所事故は人為ミスによるものだとし、再発防止には「原子力は安全」との考えを変えねばならない、と指摘
69歳


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