昭和55年(1980)   6月
1日(日) 病院に伊東官房長官、三木元首相、桜内幹事長、田中副幹事長ら多数見舞いに
2日 見舞い多数。医師団記者会見。総選挙開幕にあたり、病床より国民各位に支持を訴えるメッセージを送る
3日 見舞い多数。カーター米大統領ほか海外からも見舞いのメッセージ。午後、桜内幹事長が大阪遊説の報告。首相は「なんとしても勝とう」と激励。18時伊東官房長官が遊説日程の報告
4日 見舞い多数。鈴木総務会長、伊東官房長官が、個別に選挙遊説などで協議。食欲少しずつ回復
5日 9時半と16時に伊東官房長官。11時40分倉石法相が閣僚を代表する形で見舞いに。ほかに多数見舞客が来訪
6日 11時すぎから病室で、3回にわけて閣僚案件に署名。佐々木通産相、後藤田自治相、藤波労相、地崎運輸相らが見舞いに
7日 9時半病室に西村副総裁と伊東官房長官。西村副総裁に「党の方はあなたが陣頭指揮をとって下さい」と頼む。田中副幹事長が病状を聞くために主治医に会う
8日(日) 9時24分病室で内閣記者会の代表3人が面会。10時すぎ伊東官房長官が医師団と協議。桜内幹事長、大来外相らが見舞いに
9日 10時、病室に伊東官房長官が首相見解発表の打ち合せに。午前中に「サミットには是非出席したい。17日までに私自身で出席するか否かを決めたい」との見解を発表。夕方、医師団第2回の記者会見
10日 10時まえ病室に伊東官房長官。20時まえ田中副幹事長。見舞い多数。旧友の小野季雄氏に「得病更知旧友情 明常思長夜之愁」という漢詩を作る。党の同志に「苦痛なくして勝利なし、苦患なくして栄光なし」と健闘を祈るメッセージを送る
11日 10時まえ病室に伊東官房長官。19時まえ桜内幹事長、塩崎総務局長が選挙情勢の報告に
   
2日 第36回総選挙公示。史上初の参院選との同日選挙に突入。3日に締切りの結果、1.63倍と戦後最低の競争率
4日 連合政権構想問題で飛鳥田社会党委員長は反自民を結集した「国民共同の緊急・民主主義政府」を提唱
5日 竹入公明党委員長は社公民を中心とする連合政権の「政治原則と基本的政策の大綱試案」を発表
6日 佐々木民社党委員長は自社両党の分裂を含む政党再編を模索し、当面は公明党との協議を中心とすると発表
9日 経済企画庁は54年度のGNPは前年度比実質成長率で6.1%と発表
   
3日 米国防総省は、コンピュータの故障から3分間にわたりソ連との核戦争の警戒態勢に入った
11日 9日から開かれたOPEC総会は、基準原油価格の上限を一バレル=32ドルとし7月1日実施することで合意
70歳
  昭和55年(1980)   12日 2時25分容態が急変し、5時54分心筋梗塞のため死去。70歳。
首相容態急変と同時に、伊東官房長官が大平首相の生前の意志により首相臨時代理の職務につく。7時半首相官邸で伊東首相臨時代理が記者会見。8時45分、医師団記者会見。病院に弔問客多数来訪。10時党本部で緊急役員会。11時まえ皇居で首相死去について内奏。11時19分遺体は病院を出て首相官邸、国会前を通り私邸へ向う。17時臨時閣議。19時私邸で仮通夜。正二位、大勲位に叙され、菊花大綬賞を授与される
13日 18時すぎ瀬田の大平邸で故大平首相の通夜にあたる前夜祭
14日 13時大平邸で故大平首相の密葬。政官財界、友人など4000人が参列。15時半柩が桐ケ谷葬斎場へ。沿道で多くの市民が冥福を祈る。17時40分遺骨が大平邸に戻る
  22日 衆参同日選挙。投票率は衆院選74.57%で高率。参院選は74.54%で過去最高の投票率を示すベネチア・サミットに大来外相・竹下蔵相、佐々木通産相が出席
23日 開票の結果、自民党が圧勝し、衆参両院とも安定多数議席を獲得(衆院284名、参院135名)
  13日 前日から開かれていたEC首脳会談は、中東和平に関する宣言、アフガニスタンに関する特別宣言を発表
22日 第6回先進国首脳会議がベネチアで開幕、ソ連の脅威に対する西側の結束の姿勢を示し、ソ連軍の全面撤退を求める「アフガニスタン問題に関する宣言」とインフレ抑制など世界経済に対する80年代戦略を盛り込んだ共同宣言を採択
70歳
  昭和55年(1980)   7月
5日 地元の香川県観音寺市、豊浜町、三豊郡により観音寺市民会館で「内閣総理大臣故大平正芳先生合同葬儀式」。参列者4300人
9日 日本武道館において「故大平正芳内閣・自由民主党合同葬儀」。開式の辞・葬儀副委員長小淵恵三。黙祷。故大平正芳総理の生前の声。追悼の辞・葬儀委員長伊東正義、自由民主党副総裁西村英一、衆議院代表灘尾弘吉、参議院代表安井謙、最高裁判所長官服部高顕、友人代表森永貞一郎。天皇皇后両陛下お使御拝礼。供花・皇太子同妃両殿下、正仁親王殿下、崇仁親王同妃両殿下、寛仁親王殿下。献花。御遺骨お見送り(閉式)
108カ国、二つの国際機関の代表、6000人が参列。19時5分カーター大統領、20時15分華国鋒首相が大平邸を弔問
13日 香川県、市町長会、自民党県連など7団体により高松市民文化センターで故大平正芳首相の県民葬。伊東首相臨時代理ら政府、自民党首脳、県下各界の代表者も合わせて5000人が参列
31日 瀬田の自宅で逝去五十日記念祭
   
8日 自民党は総務会で大平後継問題の調整を西村副総裁に一任することを決定
15日 自民党は第10代の総裁に鈴木善幸前総務会長を選出、首相指名候補に決定
17日 第92回特別国会召集。衆参両院本会議で鈴木総裁が69代首相に指名される
17日 第一次鈴木内閣の発足総理=鈴木善幸、法務=奥野誠亮、外務=伊東正義、大蔵=渡辺美智雄、文部=田中龍夫、厚生=齋藤邦吉、農水=亀岡高夫、通産=田中六助、運輸=塩川正十郎、郵政=山内一郎、労働=藤尾正行、建設=斉藤滋与史、自治=石破二朗、官房=宮澤喜一、総務=中山太郎、行管=中曽根康弘、防衛=大村襄治、経企=河本敏夫、科技=中川一郎、環境=鯨岡兵輔、国土=原健三郎
   
10日 故大平首相の葬儀に参列するため来日したカーター米大統領と華国鋒中国首相が国交樹立後初の米中首脳会談
 
  昭和55年(1980)   8月
9研究グループの討議をとりまとめた『大平総理の政策研究会報告書』が刊行される
       
 
  昭和55年(1980)   9月
9月19日 瀬田の自宅で逝去百日記念祭
       
 
  昭和55年(1980)   10月        24日 コスイギン・ソ連首相が病気で辞任し、後任はチーホノフ氏
 
  昭和55年(1980)   11月        5日 共和党のレーガン候補が民主党のカーター大統領を予想外の大差で破って米大統領に当選(レーガン政権の発足は56年1月21日)共和党は26年ぶりで上院をも制す
 
  昭和55年(1980)   12月
1日 大平総理在任中の演説などの記録集『永遠の今』(四六判・557頁・非売品・大平事務所)を刊行
       
 
  昭和56年(1981)   3月30日 『「故大平正芳」内閣・自由民主党合同葬儀記録』(A5判・450頁・非売品・内閣総理大臣官房)が刊行
4月29日 パナマの首都パナマ市に大平首相を記念して大平通りができ、公園には大平首相の胸像が飾られる。その除幕式には志げ子夫人、二男裕が参列
5月30日 東京都府中市の多磨霊園で墓石・墓誌の建立式。墓石の裏には伊東前外相の筆で「君は永遠の今に生き 現職総理として死す 理想を求めて倦まず 斃れて後已まざりき」とある
6月2日 香川県三豊郡豊浜町八幡神社境内で銅像除幕式を行う
6月6日 香川県三豊郡豊浜町宗林寺で分骨の納骨式と墓石、墓誌の建立式が行われる
6月12日「大平正芳先生を偲ぶ会」(一周忌)をホテルオークラにおいて行う。政財官界の代表者ら2300人もの人々であふれ、伊東前外相が主催者代表として挨拶のあと故人を偲んで田中元首相、桜田武氏、芦原義重氏らが思い出を語った『最後の旅─遺された唯一の大平宰相日記』(森田一著・AB版変型・220頁・3500円・行政問題研究所出版局)が出版される
7月30日 メキシコの首都メキシコ市に大平首相を記念して大平公園ができる
  2月23日 ローマ法王ヨハネ・パウロニ世が来日
5月9日 日米首脳会談後の共同声明の「同盟」の解釈が問題になる
5月11日 ポーランドの労組「連帯」のワレサ議長、来日
5月16日 伊東外相が辞任し代って園田直元外相が就任
6月9日 鈴木首相、ヨーロッパ6カ国歴訪へ出発
  1月19日 イランの米大使館の人質事件が解決され、20日に全員解放
1月25日 中国で江青、張春橋被告らに死刑の判決
5月10日 ミッテラン氏が仏大統領に当選。23年ぶりに左翼政権がフランスに誕生
6月29日 華国鋒主席に代って胡耀邦氏が中国主席に就任
 


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