『国家の「余白」-メコンデルタ 生き残りの社会史』(京都大学出版会 2021年)
下條 尚志
(神戸大学大学院国際文化学研究科准教授)
この度は伝統ある大平正芳記念賞を賜りまして、大変嬉しく光栄に存じます。大平正芳記念財団、同財団運営・選定委員会、京都大学学術出版会、また本書出版に向け多大なるご支援を頂いた関係者の皆様に、深く御礼申し上げます。
本書の舞台は、20世紀後半に国際紛争下にあったベトナム南部メコンデルタです。そのなかでも、クメール人、華人、ベト(キン)人の民族的混淆が顕著にみられるフータン社(行政村に相当)という地域社会に焦点を当て、議論を展開しています。私は、フータン社に1年3か月間住み込み調査を行い、そこで得られた民族誌的資料とオーラル・ヒストリーを基盤に、地誌や公文書、報告書、統計といった文献資料も加え、20世紀以降に人々がとってきた生き残り策を検討しました。具体的には、かれらが、脱植民地化、国民国家成立、国際紛争、社会主義、市場経済化による変化に否応なく巻き込まれてゆくなか、生き残りを模索して新旧の人間関係に依拠し、ローカルな秩序を再編成してゆく過程を考察しました。この考察を通じて、徴兵忌避や闇経済の場、非合法越境ルートなど「国家の介入しにくい空間」が生成されてきたこと、そしてこうした空間が人々の生存にとって不可欠な場となっていたことを明らかにしました。
私の研究は、「ベトナム戦争と社会主義を経験した人々は、どう生きてきたのか」という素朴な疑問から始まりました。冷戦終結以降に世界各地で加速化し、またメディアを通じて可視化されるようにもなったグローバル経済や移民難民をめぐる諸問題を考えるうえで、フータン社の経験は、多くの示唆を与えると確信しています。
今後も、分断、軋轢、混乱、紛争の背景をよりよく理解するために、度重なる変化に翻弄されながらも異なる他者と折り合いをつけてきた人々の日常的な営みの過程に注目し、より大きな問題系にも接続しうる民族誌的な歴史を追求していきたいと考えています。
このような貴重な賞を頂いたことを励みに、研究のさらなる深化に取り組んで参りたいと存じます。
略歴
1984年東京都に生まれる。2007 年慶應義塾大学経済学部卒業。2015 年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士後期課程研究指導認定退学。同年博士後期課程修了、博士(地域研究)授与。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究員、京都大学東南アジア地域研究研究所機関研究員、静岡県立大学大学院国際関係学研究科助教を経て、2021年より神戸大学大学院国際文化学研究科准教授。専門は、歴史人類学、東南アジア研究。