『アジア太平洋外交の本流-戦後日本のアジア地域協力構想と対米協調外交1952~1966』
保城 広至(東京大学東洋文化研究所助手)
<欲張りな研究成果を目指して>
1966年11月、アジア開発銀行(ADB)の創立会合に於いてウ・ニュンECAFE事務局長は「アジアは待ちすぎたのです」と感慨深げに語りました。1950年代から60年代の前半にかけて、アジアで地域協力を行おうとする試みは不毛のそれで、多くの構想が生まれたにも関わらず、そのほとんどが実現せずに終わりました。ウ・ニュンの言葉は、ADBの立役者として、長年にわたってアジアにおける地域的経済協力を実現するために尽力した一人として、重く響いたことでしょう。事実、この年にはADB以外にも、東南アジア開発閣僚会議やASPACなどの地域的な枠組みが開花しています。
1950年代から60年代半ばにわたる日本のアジア・太平洋地域協力構想を、通史的に分析することが私の研究課題です。現在判明している限り、この時期日本が外交政策としてこのような構想を打ち出したのは合わせて7回あります。そのうちの6事例が、アジアとアメリカの反対に遭って挫折に終わっているのです。日本はなぜ地域協力を試みたのでしょうか。なぜアジア諸国やアメリカはそれに難色を示したのでしょうか。その原因を追究することが本研究の目的です。それに加えて、戦後基盤形成期の日本外交の政策過程を実証的に分析することで、戦後日本のアジア地域主義外交の性格を描き出すことが可能になるとも考えています。そしてそれは、現在にまで続く日本のアジア太平洋外交、すなわち“米国とアジアの橋渡し”外交の起源を探究する試みでもあります。
外交史家にも認めてもらうような良質の実証分析と、戦後日本の外交政策を幅広く説明できるような理論的考察とを兼ね備えた研究を生み出したい。そのような密かな企みも、本研究の目指す目的の一つです。思えば理論を勉強したくて大学院に入学した私でしたが、歴史的な実証分析をすることを私の指導教官は薦められました。その薦めがなければ、現在私が持っている問題意識は生まれなかったでしょうし、本研究助成を賜るという名誉に預かることもなかったと思われます。
最後になりましたが、財団の関係者の皆さま、選考委員会の先生方々に深くお礼を申し上げます。本研究の欲張りな試みが成功するように、より一層身を引き締めて研究に励みたいと思います。
略歴
1975年愛媛県生まれ。99年筑波大学第一学群社会学類卒業、2001年東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻修士課程修了、2005年同博士課程中途退学。2001年-2003年日本アイ・ビー・エム株式会社勤務。現在、東京大学東洋文化研究所東洋学研究情報センター助手。論文に「岸外交評価の再構築-東南アジア開発基金構想の提唱と挫折」『国際関係論研究』2001年。「東南アジア開発閣僚会議の開催と日本外交―1960年代における日本のイニシャティブとその限界―」『国際政治』(掲載号未定)。